結婚してみました

私がこのブログを始めたのは、結婚相談所に入会すると決めてお金を払ったからです。うまくいくかわかりませんが、どっちに転んでもそこそこ面白い展開になるかと思って。

カウンセリングの経験

前回の記事で、アダルトチルドレンのことを書いた。人に助けられ、仕事を通して少しずつ自信を回復したと。

 

ただ、ここまでの気持ちになれたのは仕事もさることながら、カウンセリングの影響もある。ここではそのことについて触れたい。

 

《欲望を外に出すということ》

私は今一度、自分を振り返った。

昔から、これが欲しいと言ってはいけないというふうに躾けられてきて、少しでもこうしたいというと大抵否定されてきたから、私を認めてください、こうしてください、と人に頼むことが著しく苦手だった。ただ黙って、自分の成果を遠くでいつか誰かが見ていてくれると信じて、自分の中の認めて欲しいという心を出してこなかった。

 

でも以前、転職などの情報サイトで紹介、開催された、“アンガーマネジメント”という講座に出た時に、素直に私はこう感じる、だからこうして欲しかったのだと伝えてみることで、思ったよりもストレスを緩和することができるのだというのを聞いた。

 

また、以前から少し、自分のこの心の苦しさを改善したいと考えていて、時々電話でのカウンセリングサービスを利用しているが、これも少し私の回復に役立っている。

 

カウンセリングの経験を書いてみる。

①初めて話したカウンセラーさんは女性で、私の母との間の会話の苦しみを再度思い起こさせるような苦しいカウンセリングだったので一度きりにした。

②次に男性のカウンセラーさんと話した。この人は、あなたの会話からは感情が見えないといわれた。事実関係が淡々とは見えるが、あなたの心がそれを見てどう動いたか、どう感じたのかが出てこないと。なにも答えられなかった。まず感情を感じることが先決だと言われたが、意味がわからなかった(今はこのアプローチが正しいとわかる)。この人とは、5回くらい話したが、話すたびに緊張することもありやめた。

 

③次に女性の、仕事の悩みを聞いてくれるカウンセラーさんに出会い、とても癒された。それと同時に、癒されるだけではなく具体的にどうしていきたいのか、揺れ動く自分の心をどこまで外に出すべきか、対策も相談に乗ってくれた。ここで私は、自分が働いてもっと上に行きたいと思っていることを、すなおに初めて人に話すことができた。この方が、”自分はこうしたい、ということで、あの人はわがままだ、ずるい、などと言う人が現れるかもしれないが、やはり自分の心の中にある、愛されたい、認められたいと言う気持ちを外に出して、誰かに受け入れてもらわないことには、解決しない”という言葉が印象的だった。しかしこの人は人気カウンセラーで予約が取りづらくなり、やめた。

 

④次にたまたま、電話の繋がった60代の女性のカウンセラーと話した。この人によると、やはり人の苦しみの根本は実は全部同じで、人に認められたい、愛されたいという気持ちだということ。そして、本当の解決、自分の癒しのためには、それを外に出してわかってもらうよりほかないのだ、ということだった。ただ、心の扉が閉まったままだと、相手からどんなに褒められても、いや、そんなことはない、その人が私を褒めるはずがない、と、拒絶してしまう。

だから手始めに、人から少しでも自分の良いところをほめられたら、それをまず素直に受け止め、書き留めて、覚えておくようにして、相手と素直に会話のできる心の状態に戻そうと言われた。

その人は私の良いところをいくつかあげてくれた。すると瞬く間に自分の心が癒されていくのを感じた。

 

私は、自分のなかにある欲を外に適切に出せてないのだとわかった。幼少期から、あんたは、欲が深いと言われて、我慢しなさい我慢しなさいと言われていた。姉がいつも叱られるのを見て、どうしたら叱られないのかばかり考え、親が求める姿に出来る限り迎合しようと努めていたのだ。多分これは、幼稚園時代からだと思う。

 

そのまま育って思い起こせば、私はいつも母と姉に、なんども長々と同じ愚痴(ほとんどが親戚や祖母に対する恨みつらみ)を延々と聞かされていた。何度か愚痴を聞きたくないと話を遮ったらキレて、私の自己否定の話にすり替えられることが続いた。そんなこんなで思春期以来ほとんど思いを外に出してきていないことに気づいた。そう言えば学生時代、論文は得意だが感想文は苦手だったことを思い出す。

 

37歳になって、初めて自分の心の中の素直な気持ちを、怖がらずに外に出そうと思った。こわくても、もはやそんなに失うものもないほどあらかじめ孤独だし、仕事でも、恋愛でも、本当の欲望を殺して、気づいて、気づいても祈っているだけではうまくいかないことももう知ってる。しかも、気持ちを素直に伝えるとか、相手にお願いすることで、相手に気持ちよく動いてもらうほうが、結果的にいいのだ。

 

私は仕事上、シニアレベルのスタッフになり、自分が良いプレーヤーであることよりも、周りに良いプレーヤーをたくさん集め、うまく働いてもらうようにすることの方が大切であるとわかってきているし、自分はそういう動きができると信じている。

 

私の妹は私とは正反対に、強靭なメンタルをもっているが、よく彼女がいうのは

“別に自分が正しいから、何言われても特に気にしない。周りとも喧嘩にならない。自信があるから。”というものだった。

 

妹は、4人めの末っ子で、親も余裕を持ち、可愛い可愛いと甘やかしてほとんど厳しくしなかった。親は彼女に、こうしろああしろと言わず、妹は姉を見て育つのだからと、より姉や私を思い通りに動かず方向に走ったのだ。

 

末の妹は、そういうわけで、朗らかで優しく、しかしたくましい子供に育った。とにかく気が強くて、誰かにいじめられても負けないし、気にしない。しかも人付き合いがうまいので、就職も結婚もさっさっさと要領よくこなし、もうすぐ三人の子供のママだ。

 

よく母に、お前はプライドが高く、本当に可愛くない子供だ、と繰り返し言われ、これが一番傷ついたのをよく覚えている。

 

私は母から離れてもう20年にもなるのに、その後もずっと、母に求められた鋳型に無理やり流し込まれて成形されそうな気持ちでいるのだ。

 

しかし、プライドとはなんだろうか。自信と同じだろうか。自信満々で偉そうな人をプライドが高い人と揶揄したりするが、実際自信のある人は周りにプライドが高いと言われないのではないだろうか。むしろ自信のない人の方が、自分を大きく見せようとして、周りにプライドを見せつけるのではないだろうか。

 

私は自信がずっとなかった。でもそれを周りに見せつけようともしていないつもりだった。自分の成果を今まで大いに周りにアピールしようとしたことなどない。言ったら周りの反感をかうだろうから。職場でじぶんのバックグラウンドを話したこともないし、プライベートなこともほとんど言わない。それなのに、自分の心の中に、いじめられてはいけない、反感を買ってはいけない、そんな思いばかりが渦巻いて、自分の思いを殺してきた。これがとてもとても苦しかった。

 

もう大人である。親からの庇護はこれまでも期待できなかったし、これからも無理だが、もうそれに頼らなくてもいい。少し心細いけれど、今までだって心細かったし、苦しいけれど他に方法もないし。

 

自分の中でできそうなことを、家庭以外の場所でいろんな形で試してきて、友達や恋人に助けてもらってきたのだから、大丈夫。人生は死ぬまでの暇つぶし。偉くなろうが、庶民だろうが、セレブだろうが、貧乏人だろうが、人に嫌われようが、好かれようが、棺に入って燃えれば同じだ。

生きてるだけで丸儲け。

だったら、自分が心穏やかにいられるために、他人のいうことより自分が確かめて得た答えを結局信じることだ。そう思う。